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茶の湯の歴史~利休以後・家元制度の確立 ~ 茶道の知識

2016/06/03

茶の湯の歴史~利休以後・家元制度の確立 ~ 茶道の知識


千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられてその生涯を閉じましたが、以後、茶道は武家社会にさらに広まりをみせます。 千利休の後を引き継いだのが、古田織部でした。


茶人・古田織部は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で、利休亡き後、秀吉のもとで茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって携わり、「織部好」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらしました。

古田織部の特徴は、大胆なデザインの茶道具や茶室を取り入れたことで、一部には行き過ぎとの批判もありましたが、現在ではその業績は高く評価されています。やがて古田織部も徳川家康から切腹を命じられます。


その後の後継ぎとして認められたのが、古田織部に師事した小堀遠州です。 小堀遠州は、生涯にわたり四百回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に及びます。

書画、和歌にも優れていた小堀遠州は、千利休の侘数奇に敬意を払いつつ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という独自の幽玄・有心の茶道を確立しました。

小堀遠州の特徴は、茶の湯を武家の正式な摂待の方法として改良し、平安時代の王朝文化を茶の湯の世界に取り入れたことにあるといわれています。


小堀遠州の時代には、千利休の孫である千宗旦金森宗和も活躍しました。千宗旦は千利休の茶の湯を忠実に守ったといわれ、金森宗和は公家と親しかったことから、公家にも受け入れられやすい茶の湯を目指したといわれています。


その後は、片桐石州が現われ、将軍家茶道指南役となり、小堀遠州の茶の湯をさらに推し進めて、武家の茶の湯の拡大に努めました。 十七世紀には、色々な人物が千利休の侘数寄を継承しつつも、独自の茶の湯を展開させました。


千利休の理想とする侘数寄は、修行を積むことによって理想とする境涯に達するべきという極めて厳しいものであったため、一般の人々には遠ざけられ、あまり厳しいことを要求しない小堀遠州や金森宗和の茶の湯に人気が集まったとも考えられています。


家元制度の確立 ~ 茶道の知識


千利休没後、百周年を機に利休の直系である千宗旦(表千家)、千宗室(裏千家)、千宗守(武者小路千家)の三家が世間から注目を浴びることとなり、やがて家元制度といわれる仕組みが茶の湯の世界に取り入れられました。


家元制度は日本独自のもので、型の授受には、完全相伝不完全相伝があります。完全相伝は、家元が引き継いだ全ての型を全ての希望する人に伝授することで、不完全相伝は、その一部のみは次に家元を継承する人以外には伝授しないことをいいます。

江戸時代には茶の湯における石州流など一部に完全相伝がみられましたが、現在では次の家元に指名された人しか家元になれない不完全相伝にしている家元がほとんどです。


この家元制度に対しては、茶の湯に限ったことではありませんが、世襲制であることに対して批判されることもありますが、家元制度があればこそ、芸道の型があまり崩れることなく、伝統的に継承されてきたという側面ももっています。

十八世紀に茶の湯の家元として世の中で認められたのは、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家の他、藪内紹智を祖とする藪内家、や片桐石州を祖とする石州流などごく僅かでした。