買取実績紹介

笹田有祥 「模 国司茄子 茶入」

作家名: 笹田有祥
更新日: 2022/1/9

1952年京都で生まれた笹田有祥は、幼い頃から陶芸作品に興味を示し、高校では陶芸家を専攻します。

高校卒業後、もっと陶芸の知識を学ぶべく京都府立陶工訓練校へ進学し、陶工訓練校卒業後は京都市立工業試験場陶磁器技能者養成所へ進みます。

その後同じく京都出身の陶芸家である手塚央に師事し、二年後に独立を果たしました。

独立後は、京都の五条坂にある共同の登り窯にて中国で製作された陶器の唐物を写した茶入を製作するようになります。

独立から二年後、本名の笹田仁史から笹田有祥と名乗り作陶に励み続けますが、1982年五条坂共同登り窯廃止に伴い、やむなく京都市北区の西賀茂という場所で新に工房を作りました。

そして京都市北区の西賀茂という場所で現在でも茶道具の製作を行っています。

五条坂の歴史

笹田有祥が共同登り窯を使用していた五条坂は、京焼発祥の地と言われ、かの有名な弁慶と牛若丸が出会った五条大橋の東側に位置します。

五条坂の近くには、茶わん坂と呼ばれる場所もあり、そこでも陶器が盛んに製作されていました。

五条坂で京焼が製作されたのは約八世紀頃で、僧行基が茶わん坂付近で陶芸の製作を行った事が始まりとされています。

その後数多くの陶工や陶器問屋が集まり陶器の町として栄えた五条坂は、京都市内の中でも最大規模を誇る登り窯と作業場、煉瓦づくりの煙突が建てられ、その中には染付技法の人間国宝である近藤悠三の記念館も建てられています。

大変栄えていた五条坂ですが、1955年高度成長期頃になると産業の発達に伴い排気ガスや水銀、二酸化硫黄など人間の体に害がある物質が多く排出されていた事態を受け、公害問題として挙げるようになりました。

そしてこの公害問題は、五条坂まで広まってきます。

以前五条坂には陶工や陶器問屋など陶器を製作し販売する人達のみで栄えていましたが、一般の人達が近隣に住むようになると登り窯から出る黒い煙に嫌悪感を示し始めます。

その結果、京都市が公害対策審議会を設置し、1971年には京都府公害防止条例が施行された事で、五条坂での陶芸製作が数を減らす事となりました。

それでもなんとか作陶を続けたい陶工達は、煙を外に出さない装置を登り窯に付けて稼働させていましたが、その後ボヤ事件が発生した事が決定的となり、五条坂の登り窯は1982年に廃止となってしまいました。



国司茄子


今回お買取りした国司茄子は、中国で作られた作品を模して製作したお品物です。

国司茄子は中国で製作され鎌倉時代から室町時代の初め頃日本へ伝わり、伊勢国の国司を務めていた北畠の手に渡り所有した事から、役職の名前を取って国司茄子となりました。

その後国司茄子は国司北畠から若狭屋宗可へ渡り、松花堂昭乗へ受け継がれます。

幕末には大阪の道具屋勝兵衛へ渡り明治4年には旧若狭小兵侯酒井家所有となり、現在は藤田美術館で所蔵されています。


今回お買取りした国司茄子は、綺麗な丸みをおびた素晴らしい作品で、卍繋ぎ文様にウサギと草花が描かれた仕服と縞模様の仕服が二点付属されていました。

共箱や作品にも傷やシミなどなくとても良い状態でしたので、高評価でお買取りさせて頂きました。



笹田有祥の作品買取について


弊社いわの美術では、笹田有祥の作品をお買取りしております。

笹田有祥は中国から伝わった作品を写して製作しており、作品の出来栄えもとても良く評価の高い陶芸家です。

また、箱書きに茶人の方の花押などが入っておりますとさらに評価は高くなります。

遺品整理・コレクション整理・お引越し・家や蔵の解体などで出てきた笹田有祥の作品がございましたら、是非いわの美術までお問い合わせ下さい。


買取可能な茶入作家

泰順館・錫屋六兵衛・原田請合・加藤茂右衛門・御錫屋天下一美作守

金重陶陽・錫屋久右衛門・野々村仁清・小林東五・細川護熙・荒川豊蔵

中里太郎右衛門・秦蔵六・三輪休雪・井上東也・月形那比古・朝日豊斎

尚玩堂・光玉堂などなど