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千利休とその思想

千利休はわび茶の完成者として知られ、茶聖と称されました。また今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠としても知られています。

千利休の思想について

千利休はわび茶の完成者として知られ、茶聖と称されました。
また今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠としても知られています。
若い頃から茶の湯に親しみ、幼名を与四郎、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号しました。利休の名が広く知られていますが、利休は居士号で晩年の名乗りであり、茶人としての人生の殆どは宗易の名で過ごしています。
17歳で北向道陳に師事し、その後道陳の推薦を受け、武野紹鷗に師事しています。
当時の茶の湯の第一人者ともいえる武野紹鷗のもと、利休は師の教えを進め、わび茶を追求していきました。

その後利休は織田信長が堺を直轄地にしたときに茶頭として雇われ、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えました。信長以上に茶の湯に熱心だった秀吉のもとでは、草庵茶室の創出、楽茶碗の制作、竹の花入れの使用など、わび茶の完成へと向かっていきます。
この頃、武将や堺の商人の間でも茶の湯が盛んに行われるようになり、利休も秀吉に重用され、3千石の禄を賜っています。

利休は楽焼をはじめとして職人を指導して好みの道具を作らせ、自らも茶室の設計、花入れや茶杓等の道具の制作にも熱心でした。
草庵茶室の普請ではそれまで4畳半を最小としていた茶室に2畳の茶室を取り入れ、躙り口や下地窓、土壁なども工夫されています。利休の茶室に見られる合理性と自由さは、現代に至るまでの日本の建築にも影響を及ぼしています。
また茶の湯の道具では造形的な装飾性は好まず、新たに作らせた楽茶碗の、特に黒楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具を好みました。

秀吉と良好な関係を築いていた利休ですが、北野大茶湯を境に徐々に関係が悪化していきます。
そして1591年利休はついに秀吉の逆鱗に触れ、蟄居を命じられました。
古田織部や細川忠興等の弟子達、前田利家も利休の助命に奔走しましたが、助命は適わず、利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられました。
その後、利休の切腹から7年後秀吉も病床に就き他界します。
晩年の秀吉は利休への仕打ちを後悔し、利休好みの茶室を建てさせ、利休と同じ作法で食事をしたといいます。

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利休の弟子

利休には多くの弟子がいましたが、その中でも特に優れた七人を利休七哲といいます。
この呼称は利休の曾孫にあたる、表千家4代目の江岑宗左(逢源斎)が記した江岑夏書の中で挙げられました。
しかし当時はそのような呼称で呼ばれたことはなく、後世に記された呼称のため、書物によって人物構成に違いがあるようです。
一般に利休七哲と呼ばれているのは、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(古田織部)、芝山宗綱、
瀬田正忠、高山右近、牧村利貞の七人です。
ただこの七人に織田長益(有楽斎)、千道安、荒木村重を加えた十哲という呼称もあります。

1591年利休の蟄居が命じられると、弟子や親交のあった諸将は助命のために奔走しました。
しかし利休の堺への追放が決まると、利休と親交のあった諸将達が秀吉を憚って現れない中、古田重然と細川忠興のみが淀の渡しに見送りに来たと言われています。
見送りの際、利休は二人に感謝してそれぞれに自作の茶杓を進呈します。
利休の死後、古田重然は茶杓に「泪」、細川忠興は「ゆがみ」と名付け、利休の遺品として重宝しました。