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12代 直叟玄室(又玅斎) 1852-1917

直叟玄室の生涯


直叟玄室は、京都の名門と呼ばれる角倉家、角倉玄寧の息子として生まれましたが、裏千家11代目の精中宗室に男子がいなかったため、婿養子に入り、裏千家12代目を継ぎました。

直叟玄室は、明治初期の時代が移り変わる苦悩な時期に精中宗室と一緒に乗り越えました。

精中宗室に多くの知識や技術を学んだ直叟玄室は20歳の時に12代目を継ぎ、これを機に精中宗室は引退します。

しかし定かではありませんが、精中宗室は引退後も京都府庁に対して建白を行っている事から引退してもしばらくの間は直叟玄室と二人三脚で裏千家を守ったと言われています。

その後1872年に跡継ぎの鉄中宗室が生まれ、その5年後には直叟玄室が時期を見計らったかのように亡くなりました。

精中宗室の努力や直叟玄室の頑張りもあり、茶道の権威は守られましたが、中には精中宗室1人の努力のおかげと思っている人などがいた為、直叟玄室にとって風当たりが強く辛い時期だったと言われています。

この不本意な対応に耐え切れなかった直叟玄室は、早々に引退して息子の鉄中宗室に跡を継がせ、側面援護に徹する事に決めました。

当時息子の鉄中宗室は13歳、精中宗室は34歳での引退で、鉄中宗室に裏千家を託し、玄室を名乗り山崎妙喜庵に隠居します。



直叟玄室の好み物


直叟玄室はあまり好み物は少ないですが、多くの茶会を開いた事で茶会関連の名品が残されていました。
その中でも有名なのが、住吉大社に伝わる釜を似せて作った住吉釜と呼ばれる作品です。
釜に描かれているデザインは直叟玄室が描いたとされ、直叟玄室の花押も押されていました。
その他にも、京都加茂川の名物、蛇籠を少し工夫して改良された加茂川籠花入や、舟の香合の形をした蜑少女などが有名な作品です。
様々な作風の作品を手がけた直叟玄室は、優れた感性と美術センスを持ち合わせ、形にとらわれない自由なお品物を残しました。