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4代 仙叟宗室(臘月庵) 1622-1697

仙叟宗室の生涯


仙叟宗室は茶人、千宗旦の4男として1622年に生まれ75歳で亡くなるまで数多くの功績を残しています。


父の千宗旦は、隠居後3男の江岑宗左に跡を継がせ、千宗旦は自身の敷地内に作ったとされる茶室で余生を過ごしました。


4男の仙叟宗室は、始めから茶道に興味はなく幼い頃から医術を志して、江戸時代前期に医師として活躍した野間玄琢に弟子入りします。

そこで玄室という名を持ち医師への道を歩み始めますが、野間玄琢が亡くなった事をキッカケに親元に戻りました。


帰省した仙叟宗室は、千宗旦がいる茶室に移り住み、千宗旦の死後茶室を譲り受けて、裏千家を興しました。

その後、既に隠居の身であった加賀藩、前田利常のもとへ茶頭として迎えられています。


前田利常は風雅を好む大名として有名で、数多くの茶器や絵画を収集し、また茶道の研究にも余年がなく小堀遠州、本阿弥光悦などを招き茶会を開いたとも言われています。


風雅を好み、茶道の研究に明け暮れた前田利常と常に一緒にいた仙叟宗室は、多くの影響を受けた事により、自身の作品製作に活かされる事となります。

その後前田利常と父、千宗旦が亡くなると、裏千家4代目を継承し、1671年に前田綱紀に茶頭として仕官しました。


裏千家14代目を継承した仙叟宗室は、審美鑑定に優れていたようで、箱書のされているものには優品が多く見受けられます。


また、京都から楽一入の弟子の長左衛門を呼び寄せて大樋焼を始め、宮崎寒雉に茶の湯釜を鋳造させるなど、工芸でも数々の功績を残しています。