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2代 少庵宗淳 1546-1614

少庵宗淳の生涯


少庵宗淳は、母の宗恩が利休の後妻となった為、利休の養子、後に女婿となりました。


元々、先天的に片足に障害を持っていた少庵宗淳は、千家内での立場が弱かった事実が確認されています。


また義兄の千道安とは年が同じなせいか、逸話などでも対比で語られることが多いです。


その後少庵宗淳は利休の娘のお亀と結婚し、1578年二人の間には宗旦が生まれました。


1580年には大徳寺門前に住み、茶湯者として自立しますが、1591年利休の切腹後は会津の蒲生氏郷を頼り会津若松の鶴ヶ城に身を潜めます。


少庵宗淳は蒲生氏郷に匿われている期間に福島県の会津若松市の茶室麟閣を創っています。

この茶室はお世話になった蒲生氏郷のために創ったと伝えられており、1594年に赦免され、少庵が京都に戻った後も鶴ヶ城で大切に使用されました。


少庵は京都で千家の相続者として利休屋敷を復興しますが、自身は早々に隠居し息子に家督を譲ります。その後は仕官もせず、利休の茶の普及に尽力したと伝えられています。


また、その好みは利休にも通じる質素と簡素、その中に優雅さが垣間見える作品が多くありました。
生前の利休との合作した事もある少庵宗淳は、利休の死後、その意思を引き継ぎ後世に数多くの作品を残しました。