茶道具作家紹介

長次郎 ちょうじろう

楽家初代
更新日: 2009/10/28
安土桃山時代の楽焼の陶工で、楽家初代。
永正13年(1516)〜天正17年(1589)。
没年は『宗入文書』に「長次郎 但戌辰年迄に百年計成」とあり、
元禄元年戌辰(1688)より100年前の天正17年(1589)を比定したとされ、
楽十三代惺入は、過去帳及び墓石より文禄元年(1592)辰年
、九月七日没、享年七十七才としたという。
唐人・阿米也(あめや)の子と伝えられる。もとは阿米也と共に装飾瓦を
焼く工人で「天正二春 依命 長次良造之」の刻銘の
赤楽獅子留蓋瓦が伝存する。千利休の指導で茶碗をつくり、
楽焼を始めたとされ、豊臣秀吉から楽字の金印を拝領して「楽」を称した。
黒赤二種の釉薬を用いる。『宗入文書』によると、
初期の楽焼は長次郎の他に田中宗慶(そうけい)その子の
庄左衛門・宗味(そうみ)と弟の吉左衛門・常慶らの手により作られたとされる。
『茶道筌蹄』に「長次郎 飴也の子なり、
利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、
文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」とある。
現在長次郎作とされる楽茶碗には作行きの異なるものが数種類認められる。
初期のものとされる「一文字」「大黒」などは利休の切形に従ったと
考えられ形姿の基本は半筒形で端然とした姿である。
また「俊寛」「杵ヲレ」などは胴にくびれが付き口を内に抱え込むやや
作為的な趣がある。ほかに「道成寺」や「勾当」のように口の開いた
熊川を想わせる姿のものもあるが、利休の好みによるのか、
作風の変化か、異なる作り手の手癖かについては明確となっていない。
「道成寺」以外はすべて総釉で、印のあるものは伝えられていない。
高台には三〜五個の目跡のあるものがある。
利休の選んだ七碗(利休七種)として、赤楽の「検校(けんぎょう)」
「早船(はやふね)」「木守(きまもり)」「臨済(りんざい)」、
黒楽の「大黒(おおぐろ)」「東陽坊(とうようぼう)」
「鉢開(はちひらき)」があり、別に外七種として、赤楽の
「一文字(いちもんじ)」「太郎坊(たろうぼう)」「聖(ひじり)」
「横雲(よこぐも)」、黒楽の「雁取(がんとり)」「閑居(かんきょ)」
「小黒(こぐろ)」がある。